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出灰不動谷について

  • 出灰不動尊(高槻別院)
神変大菩薩石像(奥之院)

出灰不動谷は、飛鳥時代の文武天皇元年(697)、役小角(えんのおづぬ /おづの /おつの=役行者 えんのぎょうじゃ=役優婆塞 えんのうばそく=神変大菩薩 じんべんだいぼさつ 634伝~706伝)が、日本で最初の毘沙門天を安置したと伝わる神峯山(かぶさん)こと加茂勢山(=加茂背山 / 通称:ポンポン山)の北斜面に面しています。

神峯山は、比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・金峰山・葛城山と並ぶ畿内七高山のひとつで、聖山として皇室と緊密な関係にありましたが、武士の時代になってからは毘沙門天の軍神としての信仰から、鎌倉時代の楠木正成、戦国時代の松永久秀、安土桃山時代の豊臣秀頼とその母・淀君、江戸時代には三代将軍 徳川家光の側室で五代将軍 綱吉の母・桂昌院ら、摂津国を中心として畿内に勢力を持つ武家らの篤い信仰を集めるようになりました。

また、摂津側の神峯山としてのみならず、都が山城に遷った後、加茂勢山は平安京の真西に位置することとなり、平安京の西方を護る西山連山(老ノ坂山地)の最高峰としても篤く信仰され、出灰不動谷の真東・都側の東斜面には善峯寺などが建立されました。

特に、 江戸期に桂昌院(1627~1705)は西山善峯寺の境内を広大なものとし数々の伽藍を寄進建立しましたが、都側の麓に出灰に通ずる灰方(はいかた)という地名を留めてはいるものの、善峯寺より西の険しい尾根は、善神龍王の住む「魔鬼の尾」と呼ばれ畏怖された聖域で、善峯寺側からこの「魔鬼の尾」を越えて真西の出灰不動谷へと抜ける道らしき道が拓かれたことは、現在に至っても一度もありません。

戦国時代から江戸期

田能城跡のある城山

出灰渓谷より更に北へ峰を越えた田能(たのう 現・高槻市)や外畑(とのはた 現・京都市西京区)といったわずかな平地帯を見下ろせる場所には戦国時代に築かれたとみられる城跡が残っています。

田能城跡、外畑城跡、共に正確な歴史的記録は残っておらず、詳細については不明のままとなっていますが、後の江戸時代以降、一帯は丹波亀山藩の領地となったため、これらの城跡は、当時、織田信長と対立関係にあった丹波守護代内藤氏や丹波亀山(後の亀岡) の城主・明智光秀に関係する丹波と摂津の国境の砦として築城されたものとみられています。

この頃には、田能や外畑はもちろん、出灰のほか、二料(にりょう)、杉生(すぎお)、中畑といった山あいの小さな平地にも集落が形成されており、天正10年(1582)、山崎の戦いで摂津高槻城主であったキリシタン大名 高山右近(1552~1615)が明智征伐のために周辺山中の寺院を焼き打ちしていることから、これらの城や周辺の寺社も同時期に焼失したと推察されています。

江戸期には集落ごとに檀家寺が建立されましたが、明治期の廃仏毀釈以降、ほとんどの山寺は廃寺や無人のものとなり、現在ではいくつかの鎮守の社祠のみが、かつての信仰の形跡を留めるのみとなりました。

廃藩置県と樫田地区の開発

奥之院の原生林

明治になり廃藩置県と廃仏毀釈による檀家制度の撤廃により、亀山藩だった出灰・田能・二料・杉生・中畑という点在する五つの集落は、まとめて京都府南桑田郡樫田村となり、大正期には、枚方~高槻間、また高槻からこの樫田村を経由して亀岡へと抜ける旧府道が建設されました。

昭和29年(1954)には、この道路が国の主要地方道(府道6号線枚方亀岡線)として指定され、高槻市街や大阪方面への自動車でのアクセスが一層便利なものとなり、昭和33年(1958)、全国初となる府境を超えた合併により旧樫田村の集落は大阪府高槻市に編入されました。
しかし、この際も、出灰川が府境となったため、出灰地区だけは、冒頭に触れた通り、川幅のほんの数メートルを挟んで大阪府と京都府に分かれるという国内でもとても珍しい区分となりました。

高槻市営バス「出灰」停付近の府道6号線で高槻市と京都市が数十m単位で入り組んでいるのもこのためで、京都・出灰は、行政区分や地図上では、京都市右京区とはいえ、大阪・出灰からしか道はなく、実質上の飛地といえます。

出灰を含む高槻樫田地区は大阪府内最大の面積を誇る森林地帯として、戦後の高度成長期には林業も栄え、ポンポン山(加茂背山)のハイキング・コースや温泉やキャンプ場などの森林観光施設も開発されました。
しかし、出灰不動谷は、不動之瀧をはじめとする荘厳かつ幽玄な瀧群を擁しながら、あまりに厳しい急斜面とその危険性からハイキング・コースや観光コースとして組み込まれることは決してありませんでした。
その結果として、出灰不動谷の原生林は、皮肉にも乱開発から逃れることができましたが、やがて高度成長期も去り、人々の生活様式の変化や地域の過疎化とともに、人々の信仰も薄れ、出灰不動谷は次第に行場としても忘れ去られていきました。

京出灰鎮守 出灰大明神

奥之院 出灰大明神社(京出灰鎮守社)

京出灰の鎮守である出灰大明神社は、不動之瀧の岩戸の真正面に位置する谷の斜面にひっそりと祀られた小さな祠ですが、この小さな本殿には不釣り合いな立派な拝殿と石の鳥居が建立されています。

拝殿と鳥居は、共に山の斜面側が土砂により埋もれかかっていますが、そのさらに手前には井戸や手水(ちょうず)の跡も埋没しており、かつては現在より広い境内がこの急斜面に整備されており、この拝殿を使った奉納の祭儀が執り行われていたことを物語っています。

小さな本殿の祠の左右には、「栢森大明神(かやのもりだいみょうじん)」「住吉大明神」と刻まれた石の灯篭がそれぞれに立っています。

不動之瀧 磐戸不動尊石像(奥之院)

これらの神々は、三神で祀られるべき祭神のうちの二神であることには違いありませんが、樫田地区の鎮守社のほとんどが、明治以降、その主祭神を「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」に統一されている中にあって、ここだけが主祭神不明とされています。

これは、まぎれもなく、神佛習合の古来より、この場所の主祭神は、あくまで、この瀧であり、この谷であり、この山そのものである「出灰不動尊」であり、廃仏毀釈の国策にあっても、不動尊を別の神の名にすり替えることはできなかったためだといえます。

しかし、このような神佛分離の思想もまた、次第にこの谷の存在を忘れ去られたものにしてしまいました。

やがて出灰大明神の祠より先は、土砂や落石、倒木や流木によって埋もれ、いつの頃から祀られていたか不明な石の不動尊像がある不動之瀧の瀧壺を囲む岩戸も、旧世紀中には、完全に閉ざされてしまったのです。

光明寺 出灰不動尊

平成元年(1989)、現住職と信者の善男善女らにより、土砂や倒木を取り除き、固く閉ざされた不動之瀧へと続く岩戸を再び切り拓いて真言宗の修行寺院として再興したのが現在の天照山 光明寺 妙芳院(高槻別院)出灰不動尊です。

本尊 掲剣不動明王立像

同年中には、出灰大明神のぜん前面を境内として整地し、仮本堂が建立され、西国二十二番札所 補陀洛山 総持寺(茨木市)に江戸時代から伝わっていたとみられる不動明王立像が本尊として安置されました。

右手の法剣を高く振り上げ、膝を右方向に曲げた不動明王は、我が国ではほとんど見ることの無いお姿ですが、このお姿こそ、不動明王の御真言にある「大憤怒尊」を意味する「センダンマカロシャダ(caṇḍa-mahāroṣaṇa)」のお姿であり、ネパールやチベットの密教においては、秘佛中の秘佛とされている不動明王本来のお姿なのです。

いつ、誰によって、なぜ、このお姿の不動明王像が作られ、どのような経緯で総持寺に収蔵されたのかは謎のままですが、不動之瀧同様、平成時代の到来と共に再びその法力の息吹を聖地・出灰よりあまねくもたらしてくださることになりました。

以降、開運祈祷や水子供養、不動谷の聖なる清流での先祖供養法「流水灌頂」など個々の御祈願や御供養をはじめ、毎年2月の「星祭」(星供養)の際には、古来、限られた修行者のみが修法した「火渡」を御参拝の皆様に体験していただき、一年の無事と安全を御祈願していただいております。
また、平成21年(2009)9月より、霊験あらたかな大自然の環境での瀧行をはじめ、護摩行や瞑想行などの密教修行法を宗旨宗派を問わず体験していただける「一日修行体験会」を毎月第1日曜日に設けております。

瀧場の仮本堂(高槻市出灰二ノ瀬 / 京都市右京区大原野出灰)の老朽化に伴い、平成24年(2012)、いづりは瞑想道場(高槻市出灰垣内)、さらに平成30年(2018)には、よりバス停に近く、より多くの方々にお参りしていただけるようにと阿字観堂(高槻市出灰東羅)をそれぞれ古民家を改修して開堂し、これまで仮本堂に祀られていた尊像や護摩壇を阿字観堂観堂へとお遷しし、出灰不動尊 新本堂とさせていただきました。

奇しくも、平成30年、大阪を直撃した台風21号により、樫田地区は、後に国の激甚災害として指定されるほどの未曽有の被害を受け、大阪最大を誇った森林の姿は世界のごとく、悲惨な光景と化してしまいました。 特に出灰周辺の被害は甚大で、いづりは瞑想道場の建物には大きな被害はありませんでしたが、道場への道路は数ヵ月にわたって封鎖され、今なお(令和2年5月現在)復旧の目途が立っていない箇所もございます。 しかし、新本堂(阿字観堂)は、幸いにも補強改修工事を終えたところで、この激甚災害にあって最小限の被害にとどめることができたうえ、役行者ゆかりの加茂勢山の借景を活かし設計された石庭からの眺めは、この一角だけが以前通りの美しい里山の姿を残しています。
また、狭く切り立った岩戸がある不動之瀧が、再び倒木や土砂に埋もれてしまうことが懸念されたのですが、驚くべきことに、この周辺だけは「不動谷」の名の通り何事もなかったように古木の枝ひとつ折れておらず、改めて上古の人々がここを「不動谷」と呼び尊んだことを思い知らされます。

平成の歴史と共に、一旦、その役割を終えた仮本堂跡地の呼称を奥之院と改め、現在、令和の幕開けと共に再整備に取り掛かっております。

加茂勢借景石庭(阿字観堂)

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