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出灰不動谷について

上古よりの聖地

出灰不動尊入山口 府境に架かる橋

我が国では、神代の頃から、三国境界点は方位の影響を受けない強運の聖地として信仰されてきました。
全国でここにしかない地名である「出灰(いずりは)」も山城・摂津・丹波の三国境界の起点にあたる上古よりの「パワースポット」で、朝廷に献上した良質な石灰を産出したことから「ゐづりは」や「ゆずりは」と呼ばれるようになったと伝わっています。

出灰川が芥川に合流する付近の橋には「両国橋」「三国橋」という名が残っており、今でもこの渓谷は京都府と大阪府の境界で、現在の本堂(阿字観本堂)のある場所や不動之瀧(奥之院)への入山口は高槻市大字出灰ですが、入山口から府境の出灰川に架かる橋を渡った先にある不動之瀧や奥之院は、京都市西京区大原野出灰に位置します。

光明寺 出灰不動尊

平成元年(1989)、現住職と信者の善男善女らにより、土砂や倒木を取り除き、固く閉ざされた不動之瀧へと続く岩戸を再び切り拓いて真言宗の修行寺院として再興したのが現在の天照山 光明寺 出灰不動尊(高槻別院)です。

本尊 掲剣不動明王立像

同年中には、出灰大明神のぜん前面を境内として整地し、仮本堂が建立され、西国二十二番札所 補陀洛山 総持寺(茨木市)に江戸時代から伝わっていたとみられる不動明王立像が本尊として安置されました。

右手の法剣を高く振り上げ、膝を右方向に曲げた不動明王は、我が国ではほとんど見ることの無いお姿ですが、このお姿こそ、不動明王の御真言にある「大憤怒尊」を意味する「センダンマカロシャダ(caṇḍa-mahāroṣaṇa)」のお姿であり、ネパールやチベットの密教においては、秘佛中の秘佛とされている不動明王本来のお姿なのです。

いつ、誰によって、なぜ、このお姿の不動明王像が作られ、どのような経緯で総持寺に収蔵されたのかは謎のままですが、不動之瀧同様、平成時代の到来と共に再びその法力の息吹を聖地・出灰よりあまねくもたらしてくださることになりました。

以降、開運祈祷や水子供養、不動谷の聖なる清流での先祖供養法「流水灌頂」など個々の御祈願や御供養をはじめ、毎年2月の「星祭」(星供養)の際には、古来、限られた修行者のみが修法した「火渡」を御参拝の皆様に体験していただき、一年の無事と安全を御祈願していただいております。
また、平成21年(2009)9月より、霊験あらたかな大自然の環境での瀧行をはじめ、護摩行や瞑想行などの密教修行法を宗旨宗派を問わず体験していただける「一日修行体験会」を毎月第1日曜日に設けております。

瀧場の仮本堂(高槻市出灰二ノ瀬 / 京都市右京区大原野出灰)の老朽化に伴い、平成24年(2012)、いづりは瞑想道場(高槻市出灰垣内)、さらに平成30年(2018)には、よりバス停に近く、より多くの方々にお参りしていただけるようにと阿字観堂(高槻市出灰東羅)をそれぞれ古民家を改修して開堂し、これまで仮本堂に祀られていた尊像や護摩壇を阿字観堂観堂へとお遷しし、出灰不動尊 新本堂とさせていただきました。

奇しくも、平成30年、大阪を直撃した台風21号により、樫田地区は、後に国の激甚災害として指定されるほどの未曽有の被害を受け、大阪最大を誇った森林の姿は世界のごとく、悲惨な光景と化してしまいました。 特に出灰周辺の被害は甚大で、いづりは瞑想道場の建物には大きな被害はありませんでしたが、道場への道路は数ヵ月にわたって封鎖され、今なお(令和2年5月現在)復旧の目途が立っていない箇所もございます。 しかし、新本堂(阿字観堂)は、幸いにも補強改修工事を終えたところで、この激甚災害にあって最小限の被害にとどめることができたうえ、役行者ゆかりの加茂勢山の借景を活かし設計された石庭からの眺めは、この一角だけが以前通りの美しい里山の姿を残しています。
また、狭く切り立った岩戸がある不動之瀧が、再び倒木や土砂に埋もれてしまうことが懸念されたのですが、驚くべきことに、この周辺だけは「不動谷」の名の通り何事もなかったように古木の枝ひとつ折れておらず、改めて上古の人々がここを「不動谷」と呼び尊んだことを思い知らされます。

平成の歴史と共に、一旦、その役割を終えた仮本堂跡地の呼称を奥之院と改め、現在、令和の幕開けと共に再整備に取り掛かっております。

加茂勢借景石庭(阿字観堂)

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